はらわた畑でつかまえて

はらわた(@HRWT_105)の自己顕示欲と承認欲求の顕著なあらわれ

ブログ開設に際して(旧ブログより転載)

全国津々浦々のはらわた信者のフロイライン達、御機嫌よう。
周知の通り、ここ一年ほど私が生息しているついったでは、一度の投稿に140字の制限があり、長文を投稿しづらい。
自己リプをして複数回にわたり文章を投稿する方法もあるが、私はこのやり方はあまり好きではないし、数千数万に及ぶような長文や画像を添付した文章の投稿にも向いていない。
また、私が足りない頭を捻って長文を書いたところで、TLに放流すれば、即座に他のツイートに埋もれ、誰も目を止めないか、適当に読み流されるのがオチだろう。糞が。
更に、全ツイート履歴をダウンロードすれば自分の過去のツイートを読み返すことも出来るが、それらは(私のツイートの殆どがその場の思い付きで呟く実の無い短文であるというのもあるけれど)記録としての意味を持たないものが多い。意義がない短文を書き続けるのも、それらを読み返すのに時間を使うのも、不毛だとすら感じる。どうせ思考を言語化し記録するのなら、振り返った際に書いた当時の考えなどを感じ取れるような形で残しておきたい。
もっと言えば、SNSの性質上、ついったではフォロワーが読むこと(所謂ウケること)を前提として書かざるを得ないし(はらわたさんのツイートがウケるか ウケないかは別として)、彼らとのコミュニケーションの手段という意味合いが強いツイートに、自己の記録としての価値を求めること自体が誤っているように 思う。とは言っても全くそういった価値がないとも言えないけれど。その辺の話はそのうちまた書くかもしれない。書かないかもしれない。
ここで本題。ブログという形であれば、文字制限を含む上記のようなSNSにおける制約に囚われずに長文や画像などを投稿でき、そのページ内に文章を留めて おくことが出来るし、書いた日付やカテゴリーなどから辿れば過去の投稿も簡単に読むことが出来る。そのため、記録・備忘録として扱うことに関しては、ブロ グはついったより優れたツールであると言える。そういう訳で、ブログを始めることにした。

……と、ここまで書いたことはブログやついったを使う上での前提に近いことだし、私が無い文章力を使って文字に起こすまでも無かったような気がする。でも折角書いたからみんな褒めて褒めて。褒めろ。
ただ、上の文中で私の主観が大いに介入しているのは、ブログもSNSと同じくネットに公開するツールであるのに関わらず「文章化した自分の考えを記録す る」という、自己満足に近い使い方をするものとして扱っているところだ。ただの記録なら一人で日記でも書いてろって感じだ。
それなのに何故私が非公開の日記で完結せず、こうした形で書いたものをネットの海に垂れ流すのかと言えば、読み手がいなければ書く張り合いがないから…つまりは承認欲求を満たすためだろう。
このブログの読み手はおそらく全員がついった上のはらわたのフォロワーだろうし、私もそれを前提に書いている。つまり、ここに記す文章はツイートの延長だ と言える。「SNSの制約が~云々」などと否定的に書いておきながら、フォロワーに読んで貰うこと、また彼らからのレスポンスを期待している訳で、結局私はただのかまってちゃんなのだ。ごめんへら。

読んだらコメント寄越せよ最高で最低なメンヘラ共……