はらわた畑でつかまえて

はらわた(@HRWT_105)の自己顕示欲と承認欲求の顕著なあらわれ

声あるものは……(要修正)

鳥の血に悲しめど、魚の血に悲しまず。声あるものは幸いなり。

 f:id:harawatadempa:20170213171520j:imagef:id:harawatadempa:20170213171601j:image

 仰々しい引用から始まってはいるが、本記事の内容は「爬虫類・両生類・奇蟲など、飼育してきた生物の”餌”を自家繁殖する際に私が思ったこと☆」といった、皮相浅薄なものである。人によっては載せる写真や内容に嫌悪感を抱くと思われるので、ゲテモノが苦手なフロイライン達は注意されたし。

※下記の記事に飼育生物の写真がすこし載っているので、それらに生理的嫌悪・拒絶感を催す方々は本記事を読まないことをお勧めします

harawatadempa.hatenablog.com

 

 所謂”エキゾチックアニマル”と呼ばれる小動物を飼育していく上で、最も大きな課題のひとつとなるのは、彼らの餌の確保であろう。たとえば小~中型の肉食性のトカゲ(以下:飼育生体)であれば、殆どの場合、生きた昆虫を餌として与える。最も代表的なものとしてはコオロギ(フタホシコオロギ、ヨーロッパイエコオロギ等)幼虫の類(ミルワームシルクワーム、ハニーワーム等)そして、ゴキブリデュビアマダガスカルゴキブリ、レッドローチ等)などである。これらの生餌は、ネット通販やペットショップなどでも手に入るが、餌として飼育生体に安定供給すること、栄養面、また飼育する上でのランニングコストを考えれば、自家繫殖させる方が利点が大きいと考えている。その場合、最も繁殖が容易かつ、初齢~成体までサイズが豊富なのが、卵胎生ゴキブリの類である。それらの種は、読んで字の如く、卵鞘を体内で孵化させ、初齢幼体を「出産」する。大雑把に言えば、ケージに入れておくと勝手に殖える。繁殖が軌道に乗れば、トカゲに限らず昆虫食・雑食の生体を複数飼育したとしても餌には困らないし、ゴキ共に栄養豊富な餌を与えておけば、飼育生体の生育にもよい。そして、個人的に最も楽しいのが、ゴキ共のコロニーから小さい(亜)成体、色が気に食わないものなどを”間引き”して飼育生体に餌として与え、最強のゴキブリコロニーを作り出すことである。もう、トカゲやタランチュラを飼っているのか、ゴキを飼っているのかわからなくなってくる。しかし、ケージ内であまり動かない・成長が遅い・変化に乏しい変温動物(さながらニート)たちよりも、ライフサイクルが短く活発に行動し殖えてくれるゴキブリさまのほうが見ていて飽きないのは当然だよね

f:id:harawatadempa:20170213165642j:imagef:id:harawatadempa:20170213165557j:imagef:id:harawatadempa:20170213165823j:imagef:id:harawatadempa:20170213165848j:image

f:id:harawatadempa:20170213170135j:imagef:id:harawatadempa:20170213170206j:image

 

ゴキ軍団と捕食シーン

  しかしながら、ゴキを餌として飼育できるのは、昆虫食・雑食かつゴキ(+栄養添加)で生きていける生体に限る。当然、極一部の例外を除けば恒温動物食の蛇の餌にはならないし、トカゲにしても大型の種は虫なんぞより肉を喰う。そこで、そういった種には齧歯目などの哺乳類や鳥類といった恒温動物を与える。大抵の場合は、通販やネットで冷凍されたものを買ってストックしておき、解凍して与えるのだが、上述のとおりゴキブリーダーとして生餌繁殖の楽しさに目覚めてしまった私は、マウス(ハツカネズミのアルビノ)とラット(ドブネズミのアルビノ)の繁殖を始めた。

   愛玩動物としても飼われることもあるマウスやラットを(それも生きたまま)蛇や蜥蜴に与えることに抵抗のある方々も多いようだが、私には理解できない。というのも、可愛いくて頭の良い哺乳類(声あるもの)といえど、餌として繁殖された彼らは餌以上の価値を持ち得ないからだ。あくまで私が飼っているのは蛇や蜥蜴(声なきもの)であり、餌の繁殖の楽しみこそあれど、繁殖の目的は飼育生体に喰わせるためだ。そこに声の有無などは無関係で、ただ私が恒温動物食の生物のために齧歯類を育て、糧にするというだけのことである。更に、上記の引用に即して付け加えるならば、幸福や憐憫の情などという観念は人間が生み出したものであって、生物を屠殺することにかんして、自らに近しい種か否かといった差異によって抱く感情が異なるということを、身勝手にも悲しみがどうとか幸いだとか意味付を行っているに過ぎない。声があろうが無かろうが、殺されるものにどういった感情を抱こうが、彼らの死は食物となるための死であって、それ以上の意味など、考えるに値しない。