はらわた畑でつかまえて

はらわた(@HRWT_105)の自己顕示欲と承認欲求の顕著なあらわれ

サード・パーソン

 他者からのイメージは自己に影響を与え得るものではないか?

 

人間には、関わる他者に依拠する顔(ペルソナ)、及び内面的に種々様々な顔があるのは前提で、どの顔が所謂"本来の自己"なのか、などという悩みは少なくとも私には縁遠い話だ。自己はあらゆる自己表現及び内面の総体なのだと思う。‬

‪しかしながら、そういった総体としての自己の中には、自分の認識の上(内面)だけでは意識出来ない一端は確かに存在し、それらを単に「自己の一端」として片付けるのはいささか乱暴であるように感じる。

すこし極端な言い方だが、ある側面では、自己が自己として機能するのは主に人と人との関わりの上であるし、言い換えれば、自己とは内面のなかだけに存在するのではなく、寧ろ、自己を測る基準たる他者のなか……特定の個人をある評価へと規定する他者からの規制として、外部にも存在していると言えるのではないか。

好例がTwitterである。アカウントの自己表現の延長であるツイートは、 当然ながら受け手によって評価も感じ方も異なる。もっと言えば、発言などを自分の意図しない形で受け取られることや、実際のアカウントの中の人とフォロワーから見たその人物の間に乖離が生まれることがしばしばある。自己評価と他者評価が違うという訳だ。また、Twitterに限って見ても、ツイートに意義があると他者に評価されればふぁぼられるし、関わる価値のある人間だと他者に判断されればフォローされリプを貰える。つまり、それらの評価はほとんど他者に依拠しているのだ。そして、そういった評価のなかにアカウントは存在し、他者評価によってある種の性格が規定され、その性格に即するように私を含むツイッタラーは振る舞う。

同じことが現実でも言えるのではないか。例えば「いい人」を「いい人」たらしめるのは周りの大多数の他者による、その個人への「いい人」という判断だ。

 そして、その「いい人」という外部からのイメージは自己の内面にも無意識下で影響を与え、個人は「いい人」らしく振る舞うようになる。これこそが、私の考える"認識出来ない自己の一端"である。何が言いたいのかと言えば、外部からの規定どおり無意識に個人は振る舞い、内外ともにその規定されたイメージが固着するということだ。