はらわた畑でつかまえて

はらわた(@HRWT_105)の自己顕示欲と承認欲求の顕著なあらわれ

曇った鏡

個人を個人たらしめるものは一体何なのであろうか。肉体、記憶、外部記憶装置としての世界、神、思考……例を挙げればきりがないし、おそらくこれまでの歴史のなかで散々議論されてきたことなのだろう。もしも私が認識する世界がそのとおりに存在するのであれば、私は自信を持って「私を私たらしめるものは私が認識する世界のすべて」と言えるだろう。しかし、私が認識可能な世界や私を形作る記憶や肉が、認識通りに存在しているとは限らない。記憶は改竄されるものであるし、いま見ている世界もそれを見ている私も、本当の意味で客観視・俯瞰することは出来ないからだ。つまり、どう足掻いても越えられないのは「主観」という壁である。サイバーパンクの世界でもない限り、個々人の脳及び肉体はそれぞれにとって独立した機関であり、抜け出すことの出来ないものだ。だから、私自身が存在する客観的な証明は出来ないし、敷衍すれば、この世界の実在も何もかも証明出来ないことになる。そうすると、前述した「私を私たらしめるもの」は、非実在可能性を孕んだ不確定要素ということになる。それでも私の肉体は主観的認識のもとにこの世界に存在している。まるで肉体という檻に閉じ込められ、その拘束の許す範囲でしか認識することを許されていないかのようだ。

 

結論:早く死んで肉体を抜け出したい